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東京地方裁判所 昭和27年(ワ)301号 判決 1955年6月20日

原告 譚敬芝

右代理人 宮田光秀

<外二名>

被告 池尻トラ

右代理人 布山富章

<外二名>

主文

原告の請求は何れもこれを棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

理由

本件家屋が被告の所有であつたこと、昭和二十五年五月一日、訴外川村武夫が被告の代理人と称する訴外吉良忠重から、代金百八十万円、その支払方法は手附金として金五十万円を即日払、残金のうち金五十万円は翌五月二日家屋明渡と同時払、残金八十万円は同月から同年十二月まで一ヶ月金十万円宛毎月末日払の約定のもとに、本件家屋を買受ける契約を締結したことは当事者間に争がないが、当裁判所は吉良には売買についての代理権はなく、また表見代理の関係も成立しないから、原告の請求は理由がないものと考える。

(一)  吉良には売買についての代理権はない。

原告は、吉良忠重は本件家屋の売買につき被告を代理する権限を有していたと主張し、成立に争のない甲第十二及び第十四号証には右の主張に副う吉良忠重及び吉良啓子の供述の記載があり、証人吉良忠重もこの点について同じ趣旨の証言をしているが、これらの証拠は成立に争のない乙第九ないし第十一号証及び証人萩原英雄の証言に対比してにわかに措信し難い。また、成立に争がない甲第十号証、第十二号証乙第九号証(萩原英雄および山下重之の供述記載部分)、証人萩原英雄、吉良忠重の各証言を綜合すれば、吉良が当時被告の内縁の夫である山下重之作成の「本件家屋につき吉良忠重に一切を委任する」旨の被告代理人山下重之名義の吉良宛委任状、本件家屋の権利証、被告の印鑑証明書等を所持していたことが認められるから、この事実からすれば、被告が吉良に対し本件家屋売買の代理権を与えたものと認めるのが相当であるかのようにもみえるが、前掲の証拠を綜合すれば、右の書類は、本件家屋の明渡を促進し、且つ、右家屋を担保に金融をうけるため吉良に対し一切を委任した形式を整える必要上交付されたものと認めるのが相当であるから、これをもつて吉良に売買についての代理権があつたことの証左とすることもできない。すなわち、本件家屋には原告が居住しており、明渡をめぐつて被告との間に紛争が続いていたが、原告が第三国人であるため、被告は内縁の夫である山下重之及びその友人の萩原英雄を介し、吉良を通じて同人の知合である第三国人バイヤーのカルシーに明渡方の交渉を依頼し、吉良に家屋明渡についての委任状を交付しておいたが、明渡交渉の進展につれ、吉良から山下等に対し、カルシーに対して自分が本件家屋について一切の委任をうけていることを証明し、同人を信用させる必要があるから包括的ないわゆる白紙委任状を交付されたいとの申入があり、且つ、カルシーに対する謝礼等を捻出するため他から金融をうける必要もあつたので、吉良に対し本件家屋を担保に金十万円を調達することを依頼し、これらの目的に使用するために前記委任状、権利証及び印鑑証明書等を吉良に交付したが、吉良の言動に不審の点があつたので、金融の依頼を取り消し、権利証の取り戻しに奔走しているうちに結局、吉良が右書類を利用して本件家屋を川村に売却したものと認めるのが相当であるから、吉良が右のような書類の交付をうけていたからといつて、同人に本件家屋の売買についての代理権があつたとみることはできない。

しかも、前掲証拠によれば、吉良は本件売買に関して被告の印章を偽造行使していることが明らかであり、又、成立に争のない甲第十三号証(川村武夫および川村綾子の供述記載部分)によれば、被告は売買のあつた翌日、川村から「自分は吉良から本件家屋を買い受けた」と告げられ、同人に売却を依頼したることなしといい、痛く驚愕の態度を示したことが認められるのであつて、前段認定事実にこれらの事情を綜合すれば、吉良に売買の代理権のなかつたことは極めて明白な事実といわなければならない。

(二)  表見代理の関係も成立しない。

本件売買契約の当時、吉良忠重が家屋の明渡に関し被告を代理する権限を有していたことは当事者間に争がない。また右売買の当日、買主たる川村武夫が手附金として金五十万円を吉良に交付したことも当事者間に争のないところであり、この事実と成立に争のない乙第八号証(川村武夫の供述記載部分)および証人川村武夫の証言とを綜合すれば、川村が本件家屋の売買について吉良に被告を代理する権限があると信じていたことは疑の余地がない。そこで、争点は川村がかく信ずるについて正当の理由があつたかどうかの点にうつるが、当裁判所のこの点に関する判断は、次のとおりである。

成立に争のない甲第十二号証、同第十三号証(川村武夫の供述記載部分)、乙第八号証(同上)、証人吉良忠重、川村武夫、糸川正三の各証言を綜合すれば、吉良は糸川正三等を通じて本件家屋の買手を求めていたが、川村武夫が買いたいというので、昭和二十五年四月三十日糸川正三等を交えて川村と折渉したが、代金の点で折り合わず、翌五月一日吉良が川村の自宅へ赴き、再度交渉の結果前段認定のような売買契約が成立し、同日、五反田駅附近の料亭において契約書を取り交し、手附金五十万円を授受したこと、その間、吉良が川村に対して、本件家屋の件につき山下重之に一切を委任した旨を記載した昭和二十五年三月三十日附の被告名義の委任状(甲第二号証ノ一)、吉良忠重に本件家屋明渡の件につき一切を委任した旨を記載した山下重之名義の前同日附委任状(甲第二号証の二)及び本件家屋につき吉良忠重に一切を委任する旨の被告代理人山下重之名義の吉良忠重宛昭和二十五年四月五日附委任状(甲第二号証の三)、被告の印鑑証明書、本件家屋の権利書、訴外日本勧業証券株式会社の本件家屋に関する抵当権附債権証書、この抵当権抹消登記に必要な抵当権者の抹消承諾書等を提示して自己の代理権限を証明したこと及び糸川正三が吉良の提示した右の書類をみて、取引の際は書類に十分注意するようにと話したことが認められる。

右に認定したように、吉良は、本件家屋の所有者である被告の印鑑証明書、権利証、抵当権抹消に必要な書類等を提示し、その代理権を証明したのであるから、ごく一般的にいえば、川村が吉良に売買についての代理権があると信じたことについては所謂正当な事由があつたものといいうるだらうし、甲第二号証の三の一切を委任する旨の包括的な委任状の外に甲第二号証の二の家屋明渡に関する限定的な委任状があつたことも、前段認定のように当時本件家屋には原告が居住し、原被告間に明渡についての紛争があつたことや、本件の売買が家屋の明渡を予想してなされていることからみれば、さして異とするに足らぬことだらう。ただ、問題は甲第二号証ノ一及び三の委任状である。甲第二号証の三の委任状には「一切を委任致します」と記載されているが、この委任状は昭和二十五年四月五日附の被告池尻トラ代理人山下重之から吉良宛のものであつて、その前提となる被告から右山下宛の委任状が甲第二号証の一の委任状である。この委任状は、前示の山下から吉良宛の家屋明渡に関する甲第二号証の二の限定的委任状と同日附の昭和二十五年三月三十日附であつて、当初、「家屋明渡の件につき一切委任致しました」と記載してあつたのを「明渡」の二字が交叉せる二本の斜線で抹消され、そこに「池尻」の印が押してあり、末尾の被告名下には「池尻」および「山下」の二個の押印があり、しかも「明渡」の二字を抹消した部分に押印してある「池尻」の印影はその朱肉の色合において、一見して被告名下の印影と異ることが明瞭に認められるものである(これらの事実は甲第二号証の一の記載自体によつて明白である)。甲第二号証の一の委任状は同第二号証の三の委任状の前提となり、基本となる重要な委任状である。にもかかわらず、右判示のように極めて疑わしい形式を具えた委任状であつて、しかも、その日附は甲第二号証の二の明渡の委任状と同日附である。のみならず。吉良の提示した書類には被告の印鑑証明書はあるが、書類上、被告から委任をうけて更らに吉良に復委任した被告代理人山下重之の印鑑証明書はないし、甲第二号証の三の委任状には、「一切を委任致します」と記載してあるだけで、売買の委任についての記載はなく、その形式からいつて普通の白紙委任状ともちがつている。川村は、本件取引の際これらの書類をみているのだから、吉良の代理権について疑念をさしはさみ、被告本人に照会する等の措置をとるのが当然であつたといわねばならない。ことに前示のように、糸川正三から取引の際は書類に十分注意するようにと話されていたのであるからなお更らのことであつて、買主たる川村において吉良に売買についての代理権ありと信ずるについて正当な事由があつたとみることはできない。

右のとおり本件家屋の所有権が被告から川村武夫に移転したとする原告の主張は理由なく、原告の本訴請求は右の所有権の移転を前提とするものであるから、この前提において理由がない以上、その余の点につき判断を加えるまでもなく、原告の本訴請求はすべて失当であるといわなければならない。よつて訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 石井良三 裁判官 藤本忠雄 杉田洋一)

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